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2016年08月19日

オチ

わたしの終活は、まったく進んでいない。
口だけ決意表明なら、しないほうがマシ・・・だった・・・。
が、まだまだ先は長い。

書きたいことが、たくさんあるが・・・事情があって書けない・・・。
書ける内容を探す・・・。
う~ん、う~ん、う~ん・・・

この、ブログ、なんだかヘンだ。
まあ、いい。

だが、去年のパリ行きで、いったん、閲覧数が、今までの過去2番目ぐらいに最低レベルに、がたんと減って、
そこから、過去最高に、せっかく増えた閲覧数を、みすみすわかっていながら減らすという、
そういう行為が、自分ながらに情けない。
といっても、かわいらしい、ささやかな数字で、密やかな楽しみであるが。

執着している。
適度な執着心は、根気や忍耐力を生み出すが、時として醜いこともある。
マイナスの効果をもたらすこともある。

もやもやなどを吐き出し、机の上に並べて、
どうやったら、もやもやが晴れるか、こころの整理をしているだけのブログなのだが、
似たようなこころの整理法を持っておられる方も、おられるのかも知れない。

・・・

日常生活のことは、あまり書かなくなった。
書いてもいいのだけれど、わたしの日常生活は、ブロネタとしては、つまらない。
書き方によって、演出したり、味付けしたりして、楽しくもなるだろうけれど、今は、あまりその気がない。
情報は非公開、秘密主義である。

そういいながらも、家族のことは、過去にさかのぼっても、ずいぶん書いている。
ただし、ある一定の側面からしか書いていない。
あえて、そうしているので、知らない方々には、大きな誤解を与え続けているかも知れない。
だが、料理法というものは、個人個人、好みがある。

・・・

文章を書く人は、ボケない、と、一般的には言われている。
わたしの場合は、例外である。
そもそも、若いときから、天然。
なので、ボケても家族や身近な人は、ぜんぜん気付かないと思う。
なんと平和な状況を長年かかって、わたしは築いてきたものだろう。


最近、ブログにオチがない。
さして考えなくて、そのままほったらかしている。
洋服でいえば、生地をまつったり、かがったり、始末せず、切りっぱなし。
人生も、オチがなくてもいいんじゃないかと思う。
日常の延長のまま、切りっぱなし。
終活も、きちんとしなくてもいいんじゃないか。

ストレスが溜まると、病気になるらしい。
自分がストレスフリーだからといって、自己チュー行動で、回りの人々にストレスを溜めさせては、不本意である。
大胆に、ではなく、臆病に、ストレスフリーを心がけている・・・と、大げさに、わざわざ、ちまちま決意しなくても、
いつもどおり。
いつもの天然。

日常の延長で、ある日、普通に一生が終われば幸せだろう。  


Posted by oldooo at 17:22Comments(0)

2016年08月12日

暑い

毎日、しつっこく「暑い暑MFGM 乳脂球膜い」と冒頭に書く。
知人からメールが来た。
冒頭に、「暑いですね」と書いてあったものだから、
それに飛びついた。

いかに暑いか、いかにそれで体調不良か、いかに不快指数がアップしているか、
いかに、焼肉をしたら娘に「こんな暑い日に焼肉なんかして!」と文句を言われ、むかついているか、
一気に、だだだっと書いた。

で、ふと思いを吐いてから思った。
あれ?
この人は、挨拶として「暑いですね」と書いているのに、
わたしのこんな不満爆発メールを読まされて、被害者になってはあまりにも気の毒だと。

で、不満爆発ぶりを少々やさしい、やわらかい言葉、表現に直して、
最後に、「暑さなんか吹き飛ぶような、先日のように楽しいことを想像して気分を切り替えます。
皆で、また大いに盛り上がりましょう!!」

と、無理やり締めくくった。
無理っぽかったか?

そう考えると、ブログは直接被害がないから、いい。
鬱陶しい内容の記事の時は、無視MFGM 乳脂球膜すればいいのだから。
直接、1対1でメールをもらったりすると、それこそ対応がたいへん。
それに、なんだかんだと気分や気持ちも、一人では受け取りきれないし。
受け手側に対しても、分散、ガス抜き、風通しが必要。

・・・

ようし、書いたついでに、もうひとつ。
冷蔵庫にあったはずの練りショウガが見つからず、またまたイライラ爆発。
今度は、疑問から始まり、嘆き、情けなさを通り越して、憤り、逆切れ。

「なんで、ない? 前回、あったじゃないの?!!」
しかしさすがにそれは、どう考えても見つけられないのは自分であり、自分がなくしているのは確実なので、
不満をぶつける対象相手がいなくて、自分で自滅した。


それと、町内会の掃除が昨日の暑いときに行われたのも、体が想像以上に消耗する遠因のひとつ。
光化学スモックでも発生したのかと思うほど、掃除後は気分が悪くなった。
さらに、追い討ちは、上娘の焼肉発言。
「うちだったら、絶対にこんな日には、焼き肉なんかしないわ」と。

なぜか、あれでわたしの脳の線がショートした。
ぶちっと切れた。小さな火花、ばちばち。

用意するほうだって大変なんだから、嫌だったら来るな!!
と、思ったが、一緒に来てくれる、とても素乳鐵蛋白晴らしいお婿さんのことを思うと、それも気の毒なので、
お婿さんに免じて、自分の気を収める方向にもっていった。
やはり、親子は、遠慮がなさすぎてよろしくない。
義理の関係のほうが、ワンクッションあって、突然、びんびんに来ることがないので安心できる。
(たとえ、彼のなかに不満がくすぶっていたとしても)

お婿さん、あんな娘でございますが、どうぞ、堪忍してやってください。
そう思いつつ、わたしも、負けているわけで、自分が弱すぎる。
言い返せない分、どこかで仇は取って、帳尻を合わせる予定。
陰湿~~。

わたしはいつも、この陰湿路線で、仇を討つ傾向にある。
これは、誰に対してもである。
恨みを胸の中に溜めて溜めて溜めて・・・おお、こわ。

買い物時に消費者が貯めるポイントの消化と同じで、期限を過ぎたら無効になるようにしたほうがいい。
ポイントは、有効期限を設けてある。
貯めに貯められると困るからだろう。

ということで、貯まったポイントは早めに景品や特典と交換して、すっきりしましょう。
お金だって、貯めて貯めて貯めても、墓場まで持っていけない。

・・・

昔の人をさかのぼってみると、
お気に入りの子供にとてもたくさん、良いものを相続させ、
気に入らない子供には、ほんの少しだけ、しかも価値の低いもの。
かなり、えこひいきが見られる。
今では、子供の相続の平等が法律で守られているので、ほんの少し前の行為に対して、時代の違いを感じる。
それは、財産がある家の場合であって、庶民には関係ない話だが。
だが、ほんのささやかな雀の涙の預金でも、平等にあげないと、その後の、きようだい紛争の元になる。
よかれと思ってやったことでも、憎しみを生み出すことになるのなら、なにもしないほうが、まし。  


Posted by oldooo at 15:36Comments(0)

2016年08月11日

決別の予感

今日こそは、ほんとうに本気で、蝶ブログ、やめてしまおうと思った。
で、ひさしぶりに、あちこちのブログにお邪魔してみた。
へえ~。近況が変わったんだ~。この人。(Aさん)
わあ、相変わらずの文章のキレ、冴え、頭が下がる・・・(Bさん)
などなど・・・
お伺いしたブロガーさん(Aさん)の記事に
「自分がブログを開設したときのように、今では毎日更新している人は、あまりなく、
一人、また一人と、かつてのブログ仲間が姿を消していく(ブログを閉鎖する)」
と、あった。

やめてしまいた理由の大きな原因は、・・・
ブログ更新は、単なる自己満足であることが、はっきりわかったから。
客観的結果が見えた。
その次の原因。
まったく見ず知らずの不特定多数の人に、自分の想いを打ち明けすぎた、後悔。
わたしがブログを閉鎖しても、無断転載ブログではまだ生き残ってしまう。
自分という資源が、無条件、無制限に、どんどん採掘され、残らず吸い取られ、枯渇しているような気分。
限りある資源の大切さに気づかない自分。
どこの誰ともわからないアカの他人である不特定多数が、どういう風に扱うかも知れない
吹きっさらしの場に、惜しみなく、無防備に無造作にさらしてしまった。
とすると作家さんは、大変だろうなあ、と思う。
自身の身や肉、血を削って、作品にしているのだから。
それが生業で、お金とってるんだから、ある意味、しかたないけれど。
自分だけでなく、肉親や身内、友人まで売ることにもなる。
もっと自分を大切にしなければ。
自分を救ったのは、想いを放ったその場だけで、
その積み重ねは、日常に飲料水に混ざった工場廃水を飲むかのごとく、
少しずつ、知らず知らずに体内を蝕んでいるのかも知れない。
その場限り、一時しのぎの開放感、爽快感には、根本的解決でもなんでもなく、
さらに弊害も含まれていることも知らずに。
そして、三つ目の理由。
閉鎖する前には、製本化しようと思っているので、その膨大な量との格闘、および、めんどくささ。
・・・
ブログの先の、実態のわからない、有形ではあるが無形の固体、人物たちに、
ほのかな期待、幻影を抱いていた私が、甘かったのだろう。
幻覚である。
私信という扱いで、特定のリアル人だけに向けて書くのもアリかも知れないが、
リアル人にこそ、じつは、このブログを読んでほしくないわけで、
そこには、大きな矛盾が生じている。  


Posted by oldooo at 16:24Comments(0)

2016年08月10日

ひと喜び


今日は週末、ウィークエンドなので、ソプラノ歌手も免補地價休業のようだ。
今朝は、静か。
だが、後ろのお宅の雑草が、すごくなってきている。
つるべ取られて、もらい水、というわけではないが、物干し竿に、つるべが巻きつく。
ほっておくと、洗濯物が干せなくなってくる。
例年、この季節になると、つるべの先っちょを、境界にあるフェンスに巻きつけておく。
自分の尻尾をくわえようと、尻尾めがけて、ぐるぐる回る犬のように、
そのうち、つるに、つるがからみつく。
後ろのお宅、はやく、雑草、刈ったほうがいいですよ~。けっこう、伸び放題。
一挙に一気にやろうという算段かも知れないが。
もし、後ろのお宅が家を売却するか、新築するかで、家の位置が変わったら、
うちの洗濯物干しスペースや、庭や居間などの環境が、がらりと変わる。
うちに面している境界部分は、以前、おじいさんの部屋だったようすだが、おじいさんも、ずいぶん前に亡くなり、
あの草ぼうぼう状態を見ると、今は、おそらく物置か何かになっているのだろう。
近隣の住宅事情で、こちらの住まいも一変する。
そのあたりが、家が密集して建っている地域のこわいところである。
今のところ、我々がこの地に越して来て以来、どこの家も住人に変化がない。
トラブルもない。
子供さんが、所帯を持って孫が増え、二世帯住宅になったりする家もある。
マンションだと、30年近く住んでいると、けっこう入れ替わりがあるようだ。
マンションでも、立地の良いところは、古くても今も人気で、
リタイア後、また新たにリフォームしたりして生活を楽しんでおられる人もいる。
といっても、そんな余裕のない人も当然、多い。
いかにして、限られた状況のなかで、生活を楽しむか、である。
趣味仲間で、どう考えても、金銭的ゆとりがないと思われる人がいるのだが、
とてもお金に窮しているようには見えず、
涼しい顔をして、優雅に、自分の時間を楽しみ、生きがいをもって前向きに生きておられる。
どこにお金をかけるか、だろう。
最低必要限度の支出。
何費に、いくらかけるか。
その費用さえ捻出できれば、あとは、どうにかなるようだ。
だが、急な支出の事態に出くわすと、とたんに、趣味の会に顔を出す機会が減る。
医療費が必要な時期は、健康も失い、お金も失い、同時パンチで、趣味どころではない。
「あの人、見かけないね」「病気らしい」
「あの人、どうしたのかな」「亡くなったらしい」
そうやって、一人消え、二人消え、やがて自分も消えていく。
出来る間に、やりたいことをやっておかないと、という気持ちになる。
「介護で」「孫の子守で」なんて言っているうちは、まだマシだ。
が、お役目も終わり、いざ、自分が楽しむ順番が来たと思ったら、こんどは自分が病気になったりする。
いかに振り回されずに、自分の時間を楽しむか、ということになるが、
なかなか計画通りにはいかない。
隙間を縫って、カーチェイスのように、ひょいひょいと車線変更したりして、臨機応変にコース変更したり、
時には、ががーんと衝突事故があったり。
自分の時間とお金と健康を見ながら、同時に、家族の介護や子育て支援に組み入れられる状態。
スケジュール調整は、突然それぞれの容態が変わったりするので、なかなか固定できない。
独り身の人は、シンプルでいいが、厳しい自己管理が必要となる。
肉体面だけでなく、精神面でも。
どっちにしても、綱渡り。
限りある時間、健康、お金をいかに有効に使うか。
そればかりを真剣に考えすぎて、ストレスを溜めたりすると、本末転倒。
健康オタクみたいなもの。
なので、なるように、なる、とういうことで、
台風が去れば、ひと喜び。
一日の終わりに、おいしいビールが飲めたら、ひと喜び。
ちょっとずつ、小分けにして、喜びをかみ締めるのがよろしいかと。
わたしの場合、ブログ記事をアップすると、ひと喜び。
(止めるんじゃなかったの?)  


Posted by oldooo at 16:22Comments(0)

2016年08月09日

人がどう思おうが。


ブログって、いいな・・・
そう思ったのは、ある瞬間・・・それは、ある人のブログを読んで、である。
わたしも、少しずつ、また書こうかな・・・。
しかし、当初は、まったくの別人になって、別の顔で再スタートをする予定だったのである。
が・・・。

最近、わたしは、毎日しつっこく訪れる、某SNSに籍を置いている。
会員にならないと、通りすがりでは、人の日記を読んだり、コメントを入れたりできない。
つまり、自分の顔(日記を主とするマイページ)を持たない人は、他人の日記には寄れない。
日記=ブログのことなのだが、会員同士のコミュニケーションに重きを置いているようだ。
(ちなみに、mixiではありません)
中でも、わたしが実際に知っている、多くのリアルな方々の動向をチェックしつつ、
彼らの書く日記やコメントとのギャップに驚いたり、いろんな、やぶにらみ「ブログの読み方」を体験中。
わたしがそこに日記を書くと、けっこう閲覧数が上がる。
1日の閲覧数としてカウントされるのではなく、日記タイトルごとに計上されるので、
毎日、別の初めての人が訪れるとカウントは上がるが、同じ人が毎日、来られてもカウントは上がらないシステムになっている。
それもあって、そのSNSにばかり行って、中毒になりかけているぐらいだ。
が・・・、
最近、それも卒業しかけている。
夢中になりすぎるのは、楽しくない。
期待しすぎると、そのぶん、凹む。
熱くなりすぎると、焦げかねない。
なにごとも、プラス、マイナスの反動淋巴減肥が大きい。
さらっと行きたい。

蝶ブログは、リアルなわたしをご存知の方は、ほとんどお互いに実像を知っている。
一方通行ということは、ない(はず)。
しかしながら、ある日、ぱらぱらと、ある人のブログを読んでいると、
わたしが、かつて撮った写真がアップされていて、びっくり。
おそらく、あまり記憶にはないのだが、わたしが、その人のケータイに送ったのだろう。
でなければ、その画像を取得しようがない。
そのときの記事内容としては、悪い受け止め方は、されてなかったのが、救いだった。
が、ほとんどは、この蝶ブログは、リアル実像のわたしをご存じない方が読んでくださっていると推測している。
じつは、わたしには、挫折放置「小説」ブログと、行った時だけ、ほんの少し書きっぱなし「旅」ブログ、
その他に・・・「○○」ブログがあるのである。
(これは、内緒なので、すみませんが、○○のジャンルは書かない)
その「○○」ブログは、めったに書かないのであるが、なにかの折に、ばばばっと書く。
訪れる人は、ほとんどいない。
たんなる、思考や感情のゴミ箱みたいなブログである。
愛着は、まったくといっていいほど、ない。
蝶ブログの後釜として、その○○ブログに続きを書こうかと思ったが、やめた。
なんとなく、違和感がある。
もし、書くなら、今までアップしているものをすべて非公開にしてからだろう。
旅ブログは、ほとんど書かないにも拘わらず、一定の閲覧数がある。
その数からすると、検索エンジンっぽくないかんじである。
不思議・・・。
・・・
書きたいジャンルのよって、ブログを分けているということだ。
某SNSは、自分の正体や背景などはまったく書いていなくて、マインド&スピリット面のみ。
それはそれで、内容が絞られていて、書きやすい。
ここ蝶ブログに書いても、同じ趣味を持つ人でなければ、興味がないと思われる内容だが。
それと、会員さんは、わたしと同じような年代の方々。
40、50歳~80歳代ぐらい?
リタイア世代が多そうだ。
趣味以外に、年齢という共通項は、大きい。  


Posted by oldooo at 16:55Comments(0)

2016年08月01日

死ぬ直前に思うこと


「人間が死ぬ寸前に思うこと」
どこかの国の看護師さんが書いた本が紹介されていた。
人間は死を前にすると、一生を振り返り、後悔するようだ。
「期待に応えるよりも、“自分らしく”生きればよかった」という後悔。
死を目の前にしないと、人生のピリオドに気付かない。当然だ。
まだまだ先があるから、その時にしようと、先延ばしにする。納得だ。
今でなくてもいいだろう、今日出来ることは、明日しよう、と。
逆に、「明日出来ることを今日するな」という教えもある。
表裏一体か。

「がむしゃらに働いたこと」の後悔。
男性は一家の大黒柱という位置づけだった。
日本がどんどん国際的に成長していく中、
今日の日本の地位を築くには、がむしゃら労働は、必要不可欠だったと思う。
いまでこそ、ゆとりの時代だとか、男女平等、子育ても家事も夫婦でシェア、が当たり前になっているが、
時代の流れも大きい。
あんなに家族のために頑張ったのに、
今では、家庭ゴミ扱いされるんなんて、過去の実績との雲泥の差をひしひし感じる高齢男性も多いことだろう。
強くなってしまった女性たちは、もはや、もとには戻らないので、現実は現実として受け止めることが大事だ。
時代には、ある程度、迎合していけないと、生きにくい。

「自分を押し殺し、我慢して自己主張しなかった」という後悔。
自分さえ我慢したら、まるく納まる・・・
そう歯を食いしばって頑張って、ストレスをためて病気になったのでは、だれが責任を取ってくれる?
少しずつ、トライして調整して、バランスを取膠原自生
ってみると、身が軽くなる。
が、死ぬ寸前では、時遅し。

「友達とあまり交流しなかった」という後悔。
生活に追われたり、歳をとって疎遠になったりで、手を抜いていた友人関係も、
残りわずかな時間となると、後悔するらしいが、
わたしに関しては、あまりない。
著者の看護師さんは、一般的に、多くの人を見てそう思ったのだろう。

「自分の幸せを追求すればよかった」という後悔。
著者は、そう書いているが、
多くの人は、尽くし我慢した分が報われなかったと感じるのだろうか。
わたしの場合、世の中のことで一番の関心事は、自分の幸せなので、
自己チューである自分に関しては、この項目は、問題なくクリア。
死ぬ間際になるまで、自分は生かされていると思っていたのだろう。
神の与えた生であり、死である。(わたし、神様を信じているわけではありませんが)
なので、能動的に生きている、と気づく人は、ほとんどいないと思う。
自分の人生の軌跡は、宿命だとか、運命だとか、偶然、与えられるものと考えている。
幸せそのものが、選択肢であることに気づかない。
旧来の価値観から解き放たれることなく、また、反対勢力の逆風を受ける勇気もなく、改革する気力もなく、
安易に今までどおりの生活を、愚痴りながら送る。
自分ができないでいることをしようとする、新しい芽は、非難し、つぶしにかかる。
右へならえ、まわりの人と歩調を合わせることだけを考え、自分流を確立しようとしない。
死ぬ間際になって、
あれ?
自分って、なんだったの?と気づく。  


Posted by oldooo at 15:42Comments(0)

2015年07月29日

この週末は一歩も外に出ない決意でミシンの前にいた

その日の内に書くのならいろいろ書けることもあったのだけれど後から時系列で書くほどのことじゃないかなという気がしてしまっているのでそのうち自然に思い出したら書こうと思權證到期う。はてなブログの方は一度更新したけどたぶんここを見ている人には関係ないね。
 
ひとつは、円形のクッションの、周りがぐるっとファスナーになっているカバーが汚れたので別の布に替えようとしたのだけど、このファスナー付けがなかなかうまく行かなかくて時間がかかった。(久しぶりに円周を計算した!) 後はパンツの裾直しなど。これはお手のもの。買い物は夫が高校野球観戦の帰りにしてくれた。『君の膵臓を食べたい』(住野よる 著)を一気読みした。さらに今日こそはこの日記を更新する決意でもってパソコンのスイッチを入れたのだけど、最初に目についたamazonで本日のセール商品『ガダラの豚1』(中島らも 著)をKindleにダウンロードしてしまい、危うく読み始めるところで日記更新の決意を思い出し、こうして今ここにこんなことを書いている。
 
 読書の夏だ。
 去年も書いたと思うけれど、読書の記憶は秋より夏に多い。何より涼しいところでじっとしていたい。閉めきった窓、うっすら聞こえる蝉の声。
 そんなわけで更新は休みがちになる予感だけど、こうして書き始めたから明日も書くのかもしれない。
 
 そうそう、『君の膵臓を食べたい』はびっくりするようなタイトルだけど、猟奇小説ではなく青春小説だ。ラノベという批判も読んだし、ヒロインが不治の病であるところなど『世界牛熊證買賣の中心で、愛をさけぶ』のようなものかしら、そういえばあれも夏に読んだなーとちょっと斜に構えて読みはじめたのだけど、もう少し明るさのある友情がメインであり、本好きで人とは関わらず内向きだった主人公(又吉さんみたい)がヒロインの影響で自分を変えていくところなど清々しく読んだ。  


Posted by oldooo at 17:54Comments(0)

2015年07月16日

この娑婆ぼんやりした人間を歩く

振り返って最初は、時間だけで、目がように千年。一輪の花が咲いてから、一枚の葉から、ひとつの出会い、1度のウキクサ散って、多すぎることを経験しての天涯放逐して、慣れた云淡风轻の筆で、座礁年回りにあった慌て。心の水雲間、あちこち桃源郷。執1部の心の静、閑見紅塵多くして、1粒で簡単、惜缘、もしな心は、この娑婆ぼんやりした人間を歩く。

もし時間を許せば、私はあなたSEO優化に付き添って花の余裕で水の流れ、禪の教えにも少なからずの修行を君と見て、色とりどりの花。悔いのない恋しいの間で溢れる満開百年、優しい気持ちにバインドごとに1つの振り向いた瞬間で覆われ、花の香りで世の変転、安然追放して。出会えたなら、何に聞かなければならない花がいくら;莫訴え別れが憂うつ、もし向きを変えて、未練も過客割若死。流年似水も、流れて行く時間があまりにも多くの美しい、任私たちはどのように苦労多くがなくて、それではかつての繁華悪止め。朝が出会いと別れの断片を、送るしかない紅塵、歳月は心に隠し、モザイク。

振り返ってみると、書いた柳の情熱がもとで語句にさかのぼってさんざんの物語で、あれらの染まって涙の诗、濡れた多情な目。紅塵の中を歩いていると、いくら別れを経験し、体得して茶涼しい何度人こそ、自分を保護してくれる淡看、身の回りの人が行き来する。今、その芳華昔の夢、もはや忘れ;あれらの風月情愁の思い出が、全ては刹那を照らし出す。年には、すぐに覚えた、縁離合、二度と変転浮瀋にぃる、栄辱」の成否。

もし時間を許せば、私はあなたに付き添って花の余裕で水の流れ、禪の教えにも少なからずの修行を君と見て、色とりどりの花。悔いのない恋しいの活出真我間で溢れる満開百年、優しい気持ちにバインドごとに1つの振り向いた瞬間で覆われ、花の香りで世の変転、安然追放して。一部の深い感情を、いくつかのご厚誼をされてもできる、紅塵染めて世の変転があり1部の絢爛のかつて、何嘗は1種の幸福。花は落ちて、香りはないといえば、意図的にも、忘れないで、たまには念から、心の中は暖かい。守1部のあっさりしている、淺笑安然、静かに花咲く花散るの瀋香に。  


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2015年07月11日

執1部の最もすばらしい祝福

美しい詩と美しい夢は偶然の、私の世界にあなたのように1筋の煙がゆっくりと散り、無数の過去は復して、手を携えての喜び、姉妹の情誼またたく間に空。この追憶になるしか滯在でき、ただ空は落花生雨は、空を気に星汉遥。
静かにあなたは歩いて、殘さず一言、美しい姿はまだ僕の頭をめぐる。そっとあなたは歩いて、殘していないか、芳華軽くて、涙は菩提。私は本当に少し受け入れないという事実を思い出し、訃報に伝わって来て、その集まりには目の前で……
探して1部の閑散として、1部の海岸で漫歩する、静かに耳dermes cpsを傾け、波奏歌ごとに一つの波は一つの音、人生の楽章を奏でて。
生命の中での一回の成長も足跡を殘し、日々増加経験で、静かで、あっさりして、優雅に直面して人生の一回の挑戦。私たちは振り返って見て、あれらの事になるのが良い思い出は海岸さざ波の浪花の起伏轻奏すばらしい楽章……
記憶の水門は、コントロールを失い、サージ波、昔の再現、あなた嫣然淺笑、静けさが悠然と。毎に会えて、一回の別れ、離れないであなたの仕事台、君は黙って耕し、名誉と地位玻璃屋を収穫して、あなたはやっとちょうどスタートして、ちょうど安らぎと栄誉を享受したのは、生花と拍手の音は、したくない、あなたは私達を離れて。
税務局に入って、ふとのようにあなたを見ていた、くだけた口調に、面倒なのを説明し、あなたの笑顔はまだかすかに私の身の回りにに現れて、美しい端装のあなたは私たちの模範。
芳華軽くて、涙は菩提は、私を覚えていると君の言うことは要らないでいつも地方に行って、仕事に必要あなたの自分を忘れたことはない、」!散策路に本当の望みはあなたを見て私に歩いてきて、髪は飄々として、熱情佳麗。
風にそっとそっと飄々として、時間が流れて、美しい花が咲くが落ちて、香りの魂は永久不変で、天国の祥雲にそっと君の影に歩いたことがあって、ぼんやりとまるであなたの身の回りに戻った……  


Posted by oldooo at 12:45Comments(0)

2015年07月02日

感恩を払うと貯蓄

生活の中で私達は一人で生きて、家族は両親などのほか、総あり多かれ少なかれの友達や同僚を伴って私たち。時には一緒に仕事だけでなく、食事、また長く休む起居も一緒で。これが私達が人間の本能的な欲望のすべての人は一定の程度の上でも増えたや楽しみや困惑の演劇成分。われわれは短くて長い人生もう靑白い色とりどりで美しくて、もう孤孤独で楽しい無身體脂肪比例限。すべての人は一生すべて1部の役割交換、不思議な物語の歴史ドラマ。過ごした日々の中で、ある人は偶然交わら数ヶ月、認識は数十年の人よりもっと投機、更に暗黙の瞭解。ある種の気遣いと惜しむ時さでインタラクティブに潜む。一部の人はずっと連絡しないのに、毎日会うよりももっと親密の何人かに、もっと親しく。いつ以心伝心の知り合いになると思う。友達の帶氧運動ようなお茶のように長い弥ノール、もっと品ほど味があって、長い間に殘る。で甘かっに鼻バブルわき返るコーラ、喧噪の後、曲終人散。好きな人を大切にするなら、心に大切にしたい。好きじゃない人も、無理して自分が強いマスク、工夫を凝らしての微笑。いい友達を真いくつかして変わって、ただ、変更はめちゃくちゃになって、己のない人がない、

生存生活の中で、人と人の間の付き合いで、あなたはどのように気をつけて加護は、ダメージと傷つけられたり、人心善、生きるためには常に無意識のうちに他人を傷つけて、私達は信じます世界の美しいが、胸の中でいつも期冀されて世界を傷つけている。実は、害がなくても、私達はどのようにされている傷の痛みとしようがなさですか?なぜ記念かつてのがすばらしくてと楽しいです居屋按揭か?どうして今のを大切にすると幸せを持ってますか?何度を、私たちがマスター担当と勇敢、強さと妥協、しっかりと奮起して、寛容と安心。これはダメージの恵みを返すと。人と人の間の付き合い、どんな丹念な部分は、利用、人心は本良、私たちの生活のためにはよく知らないで人を利用する;私達は信じます人間性の純真なのに、広くて平坦な協力の中でいつも隠されを利用している。実は、利用しない、私達はどのようにされている利用の無知と愚かですか?なぜ恋しい過去の甘いとずっと?目の前のもの珍存と満足を得る。たびたびの利用に、私たちはやっと覚えたと、警戒心とバランス正視に耐え、不敵と理解を無視し、スッキリと。これは利用の贈り物を与えて。

人はなぜ会心疲れて、常にうろうろするのは堅持しない;人が苦痛は、追求の多すぎてよくしてもらい、不均衡が楽しくない;人は、コンピュータのあまりよくないことを取患上て、嫉妬して;人が悩みはよい記憶力はいつでもどこでも愚直はないが、この記の、覚えても記憶に殘る。実は、多くの苦痛は人によって自分のではなく、自分の教養が足りない、涵養は深くありませんて、学問上の造詣は不足して、教養不全、学会に置き、学会包容、学会思いやり、学会くみ、あなた自身の生活に疲れないように自分で背負うのが多すぎて、あなた自身の考え過ぎないように自分があまりに深い悲しみ。

人の一生に関わらず、あなたは願う、運命はいつも選択とつながっている。もしかすると、選択の成功は努力を払わなければならない、、、選択した高尚のに遭遇卑しいか、選択した文明は、野蛮中へ。あなたはもっと堅持してあなたの选択、もしかするとあなたを受けるのは一生計り知れないほどの苦しみ。しかし、選択した飛ぶ、抵抗を克服すると高所恐怖の堅持下、ごちゃごちゃに喜びを感じでよく見かける靑空;を航海する風があってと、揺れの強さに徴服の喜ぶことを楽しむで海を感じる。私たちをよく選択し人生最良の选択を堅持して、堅持して最強の。

人生をわかる学会貯蓄。もし善良と、貯蔵福缘;もし勤勉と努力がなければ、IQの貯蔵、貯蔵豊作努力がなければ、貯蔵、希望すれば笑い、は楽しみを蓄える……生活必要に引き出す何かによって、貯蓄したのか。友情は貯蔵、できない引き出す愛;貯蔵払ったら、引き出す助けない;貯蔵学識、できない引き出す能力;貯蔵趣味、できない引き出す技芸を蓄えて汗がない、できない引き出すことに成功して、信仰は貯蔵できない輝きを引き出す。役に立ちたいの絶え間ない技能、貯蓄勤労と革新したい時、が無尽蔵の幸せ、毎日貯蓄感謝を払うと。  


Posted by oldooo at 12:42Comments(0)