ナチュログ管理画面 釣り 釣り 北海道・東北 アウトドア&フィッシングナチュラムアウトドア用品お買い得情報

2016年08月19日

オチ

わたしの終活は、まったく進んでいない。
口だけ決意表明なら、しないほうがマシ・・・だった・・・。
が、まだまだ先は長い。

書きたいことが、たくさんあるが・・・事情があって書けない・・・。
書ける内容を探す・・・。
う~ん、う~ん、う~ん・・・

この、ブログ、なんだかヘンだ。
まあ、いい。

だが、去年のパリ行きで、いったん、閲覧数が、今までの過去2番目ぐらいに最低レベルに、がたんと減って、
そこから、過去最高に、せっかく増えた閲覧数を、みすみすわかっていながら減らすという、
そういう行為が、自分ながらに情けない。
といっても、かわいらしい、ささやかな数字で、密やかな楽しみであるが。

執着している。
適度な執着心は、根気や忍耐力を生み出すが、時として醜いこともある。
マイナスの効果をもたらすこともある。

もやもやなどを吐き出し、机の上に並べて、
どうやったら、もやもやが晴れるか、こころの整理をしているだけのブログなのだが、
似たようなこころの整理法を持っておられる方も、おられるのかも知れない。

・・・

日常生活のことは、あまり書かなくなった。
書いてもいいのだけれど、わたしの日常生活は、ブロネタとしては、つまらない。
書き方によって、演出したり、味付けしたりして、楽しくもなるだろうけれど、今は、あまりその気がない。
情報は非公開、秘密主義である。

そういいながらも、家族のことは、過去にさかのぼっても、ずいぶん書いている。
ただし、ある一定の側面からしか書いていない。
あえて、そうしているので、知らない方々には、大きな誤解を与え続けているかも知れない。
だが、料理法というものは、個人個人、好みがある。

・・・

文章を書く人は、ボケない、と、一般的には言われている。
わたしの場合は、例外である。
そもそも、若いときから、天然。
なので、ボケても家族や身近な人は、ぜんぜん気付かないと思う。
なんと平和な状況を長年かかって、わたしは築いてきたものだろう。


最近、ブログにオチがない。
さして考えなくて、そのままほったらかしている。
洋服でいえば、生地をまつったり、かがったり、始末せず、切りっぱなし。
人生も、オチがなくてもいいんじゃないかと思う。
日常の延長のまま、切りっぱなし。
終活も、きちんとしなくてもいいんじゃないか。

ストレスが溜まると、病気になるらしい。
自分がストレスフリーだからといって、自己チュー行動で、回りの人々にストレスを溜めさせては、不本意である。
大胆に、ではなく、臆病に、ストレスフリーを心がけている・・・と、大げさに、わざわざ、ちまちま決意しなくても、
いつもどおり。
いつもの天然。

日常の延長で、ある日、普通に一生が終われば幸せだろう。  


Posted by oldooo at 17:22Comments(0)

2016年08月12日

暑い

毎日、しつっこく「暑い暑MFGM 乳脂球膜い」と冒頭に書く。
知人からメールが来た。
冒頭に、「暑いですね」と書いてあったものだから、
それに飛びついた。

いかに暑いか、いかにそれで体調不良か、いかに不快指数がアップしているか、
いかに、焼肉をしたら娘に「こんな暑い日に焼肉なんかして!」と文句を言われ、むかついているか、
一気に、だだだっと書いた。

で、ふと思いを吐いてから思った。
あれ?
この人は、挨拶として「暑いですね」と書いているのに、
わたしのこんな不満爆発メールを読まされて、被害者になってはあまりにも気の毒だと。

で、不満爆発ぶりを少々やさしい、やわらかい言葉、表現に直して、
最後に、「暑さなんか吹き飛ぶような、先日のように楽しいことを想像して気分を切り替えます。
皆で、また大いに盛り上がりましょう!!」

と、無理やり締めくくった。
無理っぽかったか?

そう考えると、ブログは直接被害がないから、いい。
鬱陶しい内容の記事の時は、無視MFGM 乳脂球膜すればいいのだから。
直接、1対1でメールをもらったりすると、それこそ対応がたいへん。
それに、なんだかんだと気分や気持ちも、一人では受け取りきれないし。
受け手側に対しても、分散、ガス抜き、風通しが必要。

・・・

ようし、書いたついでに、もうひとつ。
冷蔵庫にあったはずの練りショウガが見つからず、またまたイライラ爆発。
今度は、疑問から始まり、嘆き、情けなさを通り越して、憤り、逆切れ。

「なんで、ない? 前回、あったじゃないの?!!」
しかしさすがにそれは、どう考えても見つけられないのは自分であり、自分がなくしているのは確実なので、
不満をぶつける対象相手がいなくて、自分で自滅した。


それと、町内会の掃除が昨日の暑いときに行われたのも、体が想像以上に消耗する遠因のひとつ。
光化学スモックでも発生したのかと思うほど、掃除後は気分が悪くなった。
さらに、追い討ちは、上娘の焼肉発言。
「うちだったら、絶対にこんな日には、焼き肉なんかしないわ」と。

なぜか、あれでわたしの脳の線がショートした。
ぶちっと切れた。小さな火花、ばちばち。

用意するほうだって大変なんだから、嫌だったら来るな!!
と、思ったが、一緒に来てくれる、とても素乳鐵蛋白晴らしいお婿さんのことを思うと、それも気の毒なので、
お婿さんに免じて、自分の気を収める方向にもっていった。
やはり、親子は、遠慮がなさすぎてよろしくない。
義理の関係のほうが、ワンクッションあって、突然、びんびんに来ることがないので安心できる。
(たとえ、彼のなかに不満がくすぶっていたとしても)

お婿さん、あんな娘でございますが、どうぞ、堪忍してやってください。
そう思いつつ、わたしも、負けているわけで、自分が弱すぎる。
言い返せない分、どこかで仇は取って、帳尻を合わせる予定。
陰湿~~。

わたしはいつも、この陰湿路線で、仇を討つ傾向にある。
これは、誰に対してもである。
恨みを胸の中に溜めて溜めて溜めて・・・おお、こわ。

買い物時に消費者が貯めるポイントの消化と同じで、期限を過ぎたら無効になるようにしたほうがいい。
ポイントは、有効期限を設けてある。
貯めに貯められると困るからだろう。

ということで、貯まったポイントは早めに景品や特典と交換して、すっきりしましょう。
お金だって、貯めて貯めて貯めても、墓場まで持っていけない。

・・・

昔の人をさかのぼってみると、
お気に入りの子供にとてもたくさん、良いものを相続させ、
気に入らない子供には、ほんの少しだけ、しかも価値の低いもの。
かなり、えこひいきが見られる。
今では、子供の相続の平等が法律で守られているので、ほんの少し前の行為に対して、時代の違いを感じる。
それは、財産がある家の場合であって、庶民には関係ない話だが。
だが、ほんのささやかな雀の涙の預金でも、平等にあげないと、その後の、きようだい紛争の元になる。
よかれと思ってやったことでも、憎しみを生み出すことになるのなら、なにもしないほうが、まし。  


Posted by oldooo at 15:36Comments(0)

2016年08月11日

決別の予感

今日こそは、ほんとうに本気で、蝶ブログ、やめてしまおうと思った。
で、ひさしぶりに、あちこちのブログにお邪魔してみた。
へえ~。近況が変わったんだ~。この人。(Aさん)
わあ、相変わらずの文章のキレ、冴え、頭が下がる・・・(Bさん)
などなど・・・
お伺いしたブロガーさん(Aさん)の記事に
「自分がブログを開設したときのように、今では毎日更新している人は、あまりなく、
一人、また一人と、かつてのブログ仲間が姿を消していく(ブログを閉鎖する)」
と、あった。

やめてしまいた理由の大きな原因は、・・・
ブログ更新は、単なる自己満足であることが、はっきりわかったから。
客観的結果が見えた。
その次の原因。
まったく見ず知らずの不特定多数の人に、自分の想いを打ち明けすぎた、後悔。
わたしがブログを閉鎖しても、無断転載ブログではまだ生き残ってしまう。
自分という資源が、無条件、無制限に、どんどん採掘され、残らず吸い取られ、枯渇しているような気分。
限りある資源の大切さに気づかない自分。
どこの誰ともわからないアカの他人である不特定多数が、どういう風に扱うかも知れない
吹きっさらしの場に、惜しみなく、無防備に無造作にさらしてしまった。
とすると作家さんは、大変だろうなあ、と思う。
自身の身や肉、血を削って、作品にしているのだから。
それが生業で、お金とってるんだから、ある意味、しかたないけれど。
自分だけでなく、肉親や身内、友人まで売ることにもなる。
もっと自分を大切にしなければ。
自分を救ったのは、想いを放ったその場だけで、
その積み重ねは、日常に飲料水に混ざった工場廃水を飲むかのごとく、
少しずつ、知らず知らずに体内を蝕んでいるのかも知れない。
その場限り、一時しのぎの開放感、爽快感には、根本的解決でもなんでもなく、
さらに弊害も含まれていることも知らずに。
そして、三つ目の理由。
閉鎖する前には、製本化しようと思っているので、その膨大な量との格闘、および、めんどくささ。
・・・
ブログの先の、実態のわからない、有形ではあるが無形の固体、人物たちに、
ほのかな期待、幻影を抱いていた私が、甘かったのだろう。
幻覚である。
私信という扱いで、特定のリアル人だけに向けて書くのもアリかも知れないが、
リアル人にこそ、じつは、このブログを読んでほしくないわけで、
そこには、大きな矛盾が生じている。  


Posted by oldooo at 16:24Comments(0)

2016年08月10日

ひと喜び


今日は週末、ウィークエンドなので、ソプラノ歌手も免補地價休業のようだ。
今朝は、静か。
だが、後ろのお宅の雑草が、すごくなってきている。
つるべ取られて、もらい水、というわけではないが、物干し竿に、つるべが巻きつく。
ほっておくと、洗濯物が干せなくなってくる。
例年、この季節になると、つるべの先っちょを、境界にあるフェンスに巻きつけておく。
自分の尻尾をくわえようと、尻尾めがけて、ぐるぐる回る犬のように、
そのうち、つるに、つるがからみつく。
後ろのお宅、はやく、雑草、刈ったほうがいいですよ~。けっこう、伸び放題。
一挙に一気にやろうという算段かも知れないが。
もし、後ろのお宅が家を売却するか、新築するかで、家の位置が変わったら、
うちの洗濯物干しスペースや、庭や居間などの環境が、がらりと変わる。
うちに面している境界部分は、以前、おじいさんの部屋だったようすだが、おじいさんも、ずいぶん前に亡くなり、
あの草ぼうぼう状態を見ると、今は、おそらく物置か何かになっているのだろう。
近隣の住宅事情で、こちらの住まいも一変する。
そのあたりが、家が密集して建っている地域のこわいところである。
今のところ、我々がこの地に越して来て以来、どこの家も住人に変化がない。
トラブルもない。
子供さんが、所帯を持って孫が増え、二世帯住宅になったりする家もある。
マンションだと、30年近く住んでいると、けっこう入れ替わりがあるようだ。
マンションでも、立地の良いところは、古くても今も人気で、
リタイア後、また新たにリフォームしたりして生活を楽しんでおられる人もいる。
といっても、そんな余裕のない人も当然、多い。
いかにして、限られた状況のなかで、生活を楽しむか、である。
趣味仲間で、どう考えても、金銭的ゆとりがないと思われる人がいるのだが、
とてもお金に窮しているようには見えず、
涼しい顔をして、優雅に、自分の時間を楽しみ、生きがいをもって前向きに生きておられる。
どこにお金をかけるか、だろう。
最低必要限度の支出。
何費に、いくらかけるか。
その費用さえ捻出できれば、あとは、どうにかなるようだ。
だが、急な支出の事態に出くわすと、とたんに、趣味の会に顔を出す機会が減る。
医療費が必要な時期は、健康も失い、お金も失い、同時パンチで、趣味どころではない。
「あの人、見かけないね」「病気らしい」
「あの人、どうしたのかな」「亡くなったらしい」
そうやって、一人消え、二人消え、やがて自分も消えていく。
出来る間に、やりたいことをやっておかないと、という気持ちになる。
「介護で」「孫の子守で」なんて言っているうちは、まだマシだ。
が、お役目も終わり、いざ、自分が楽しむ順番が来たと思ったら、こんどは自分が病気になったりする。
いかに振り回されずに、自分の時間を楽しむか、ということになるが、
なかなか計画通りにはいかない。
隙間を縫って、カーチェイスのように、ひょいひょいと車線変更したりして、臨機応変にコース変更したり、
時には、ががーんと衝突事故があったり。
自分の時間とお金と健康を見ながら、同時に、家族の介護や子育て支援に組み入れられる状態。
スケジュール調整は、突然それぞれの容態が変わったりするので、なかなか固定できない。
独り身の人は、シンプルでいいが、厳しい自己管理が必要となる。
肉体面だけでなく、精神面でも。
どっちにしても、綱渡り。
限りある時間、健康、お金をいかに有効に使うか。
そればかりを真剣に考えすぎて、ストレスを溜めたりすると、本末転倒。
健康オタクみたいなもの。
なので、なるように、なる、とういうことで、
台風が去れば、ひと喜び。
一日の終わりに、おいしいビールが飲めたら、ひと喜び。
ちょっとずつ、小分けにして、喜びをかみ締めるのがよろしいかと。
わたしの場合、ブログ記事をアップすると、ひと喜び。
(止めるんじゃなかったの?)  


Posted by oldooo at 16:22Comments(0)

2016年08月09日

人がどう思おうが。


ブログって、いいな・・・
そう思ったのは、ある瞬間・・・それは、ある人のブログを読んで、である。
わたしも、少しずつ、また書こうかな・・・。
しかし、当初は、まったくの別人になって、別の顔で再スタートをする予定だったのである。
が・・・。

最近、わたしは、毎日しつっこく訪れる、某SNSに籍を置いている。
会員にならないと、通りすがりでは、人の日記を読んだり、コメントを入れたりできない。
つまり、自分の顔(日記を主とするマイページ)を持たない人は、他人の日記には寄れない。
日記=ブログのことなのだが、会員同士のコミュニケーションに重きを置いているようだ。
(ちなみに、mixiではありません)
中でも、わたしが実際に知っている、多くのリアルな方々の動向をチェックしつつ、
彼らの書く日記やコメントとのギャップに驚いたり、いろんな、やぶにらみ「ブログの読み方」を体験中。
わたしがそこに日記を書くと、けっこう閲覧数が上がる。
1日の閲覧数としてカウントされるのではなく、日記タイトルごとに計上されるので、
毎日、別の初めての人が訪れるとカウントは上がるが、同じ人が毎日、来られてもカウントは上がらないシステムになっている。
それもあって、そのSNSにばかり行って、中毒になりかけているぐらいだ。
が・・・、
最近、それも卒業しかけている。
夢中になりすぎるのは、楽しくない。
期待しすぎると、そのぶん、凹む。
熱くなりすぎると、焦げかねない。
なにごとも、プラス、マイナスの反動淋巴減肥が大きい。
さらっと行きたい。

蝶ブログは、リアルなわたしをご存知の方は、ほとんどお互いに実像を知っている。
一方通行ということは、ない(はず)。
しかしながら、ある日、ぱらぱらと、ある人のブログを読んでいると、
わたしが、かつて撮った写真がアップされていて、びっくり。
おそらく、あまり記憶にはないのだが、わたしが、その人のケータイに送ったのだろう。
でなければ、その画像を取得しようがない。
そのときの記事内容としては、悪い受け止め方は、されてなかったのが、救いだった。
が、ほとんどは、この蝶ブログは、リアル実像のわたしをご存じない方が読んでくださっていると推測している。
じつは、わたしには、挫折放置「小説」ブログと、行った時だけ、ほんの少し書きっぱなし「旅」ブログ、
その他に・・・「○○」ブログがあるのである。
(これは、内緒なので、すみませんが、○○のジャンルは書かない)
その「○○」ブログは、めったに書かないのであるが、なにかの折に、ばばばっと書く。
訪れる人は、ほとんどいない。
たんなる、思考や感情のゴミ箱みたいなブログである。
愛着は、まったくといっていいほど、ない。
蝶ブログの後釜として、その○○ブログに続きを書こうかと思ったが、やめた。
なんとなく、違和感がある。
もし、書くなら、今までアップしているものをすべて非公開にしてからだろう。
旅ブログは、ほとんど書かないにも拘わらず、一定の閲覧数がある。
その数からすると、検索エンジンっぽくないかんじである。
不思議・・・。
・・・
書きたいジャンルのよって、ブログを分けているということだ。
某SNSは、自分の正体や背景などはまったく書いていなくて、マインド&スピリット面のみ。
それはそれで、内容が絞られていて、書きやすい。
ここ蝶ブログに書いても、同じ趣味を持つ人でなければ、興味がないと思われる内容だが。
それと、会員さんは、わたしと同じような年代の方々。
40、50歳~80歳代ぐらい?
リタイア世代が多そうだ。
趣味以外に、年齢という共通項は、大きい。  


Posted by oldooo at 16:55Comments(0)

2016年08月01日

死ぬ直前に思うこと


「人間が死ぬ寸前に思うこと」
どこかの国の看護師さんが書いた本が紹介されていた。
人間は死を前にすると、一生を振り返り、後悔するようだ。
「期待に応えるよりも、“自分らしく”生きればよかった」という後悔。
死を目の前にしないと、人生のピリオドに気付かない。当然だ。
まだまだ先があるから、その時にしようと、先延ばしにする。納得だ。
今でなくてもいいだろう、今日出来ることは、明日しよう、と。
逆に、「明日出来ることを今日するな」という教えもある。
表裏一体か。

「がむしゃらに働いたこと」の後悔。
男性は一家の大黒柱という位置づけだった。
日本がどんどん国際的に成長していく中、
今日の日本の地位を築くには、がむしゃら労働は、必要不可欠だったと思う。
いまでこそ、ゆとりの時代だとか、男女平等、子育ても家事も夫婦でシェア、が当たり前になっているが、
時代の流れも大きい。
あんなに家族のために頑張ったのに、
今では、家庭ゴミ扱いされるんなんて、過去の実績との雲泥の差をひしひし感じる高齢男性も多いことだろう。
強くなってしまった女性たちは、もはや、もとには戻らないので、現実は現実として受け止めることが大事だ。
時代には、ある程度、迎合していけないと、生きにくい。

「自分を押し殺し、我慢して自己主張しなかった」という後悔。
自分さえ我慢したら、まるく納まる・・・
そう歯を食いしばって頑張って、ストレスをためて病気になったのでは、だれが責任を取ってくれる?
少しずつ、トライして調整して、バランスを取膠原自生
ってみると、身が軽くなる。
が、死ぬ寸前では、時遅し。

「友達とあまり交流しなかった」という後悔。
生活に追われたり、歳をとって疎遠になったりで、手を抜いていた友人関係も、
残りわずかな時間となると、後悔するらしいが、
わたしに関しては、あまりない。
著者の看護師さんは、一般的に、多くの人を見てそう思ったのだろう。

「自分の幸せを追求すればよかった」という後悔。
著者は、そう書いているが、
多くの人は、尽くし我慢した分が報われなかったと感じるのだろうか。
わたしの場合、世の中のことで一番の関心事は、自分の幸せなので、
自己チューである自分に関しては、この項目は、問題なくクリア。
死ぬ間際になるまで、自分は生かされていると思っていたのだろう。
神の与えた生であり、死である。(わたし、神様を信じているわけではありませんが)
なので、能動的に生きている、と気づく人は、ほとんどいないと思う。
自分の人生の軌跡は、宿命だとか、運命だとか、偶然、与えられるものと考えている。
幸せそのものが、選択肢であることに気づかない。
旧来の価値観から解き放たれることなく、また、反対勢力の逆風を受ける勇気もなく、改革する気力もなく、
安易に今までどおりの生活を、愚痴りながら送る。
自分ができないでいることをしようとする、新しい芽は、非難し、つぶしにかかる。
右へならえ、まわりの人と歩調を合わせることだけを考え、自分流を確立しようとしない。
死ぬ間際になって、
あれ?
自分って、なんだったの?と気づく。  


Posted by oldooo at 15:42Comments(0)