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Posted by naturum at

2015年02月27日

仕事として

悪口をさんざん書いたあと、
「自分は成長過程で、一生勉強です」
「今日の記事は、自己嫌悪を感じる、つまらない記事になりました」
みたいなかんじの、自己弁護的なことを書くのはけしからん、お品がないとのこと。

ちょっと、衝撃を受<Neo skin lab 呃錢けた。
そうなのか・・・。

わたしは、誰かれとなく文句を言っているのか???
(自分に対しては、年がら年中、文句を言っているような気がする・・・)
あまり、自分が書いたブログの内容を気にしたことはなかったが、
(書いたあと、スッキリして、内容をころ香港短租公寓っと忘れるのだろう)
確かに、「一生勉強」みたいなことは、常に思っているし、よく結びの言葉として書いているような心当たりがある。
そういう、自分に向けての励ましやエールを込めた言葉も、人から見ると、
吐き気がするほど嫌なものだったのか・・・。
(誰に対してと名指しはされていないが、結びの言葉は、わたしは、しょっちゅう使うので・・・)
どうやら、そういった一連の言葉の流れは、こころのバランスを取る、という作業らしい。

わたしの、問題点は・・・唯一、最大の問題は・・・
書いた内容を忘れているということだ。
これは、いちばん、ひどい。
書いた瞬間、忘れている。
書く一方で、その内容台灣集運到香港を読む方がいる、ということすら、視野、念頭にない。
自分のことで、精一杯。
吐き出すことで、精一杯。
だからといって、「関西人特有の自己チュー」と追記しても、決して自己弁護にはならないだろう。
自分自身の感情は救済もできても、世間に対して自分を正当化はできない。

いやはや、いろんなモノの見方、感じ方があるものなのだ。
どれが正しいわけでも、悪いわけでもないだろう。
ただ、自分ではまったく気付かずに、人に不快感を与えている可能性もある、という、
そういうことを、初めて実感として感じた。


時の権力者も、総理大臣も、世界屈指の大金持ちも、有能な武将も、有名女優も、
誰一人からも不満をもたれていない人、そんな人など、存在しないと思う。
たとえ、慈善家や崇高な聖職者でさえも。
身近にいる、家族、恋人、子供でさえも。

聖職者も、毎日、自分の未熟さを見つめ、一生かけて乗り越え克服しようと、祈っているかも知れない。
慈善家は、ひとに尽くしすぎて、自分も死んでしまったりしたら、どうするのだろう?

ひたむきに祈れるひとは、まだいい。
義母は、お経を唱えながら、今晩の献立を考えていることもある、と言っていた。
宗教の時間、自分と向き合う純粋な時間も、主婦ともなれば、時間に追われて、たいへんなのだ。
(わたしも、ちょっと前、洗濯機の完了音が聞こえ、洗濯物を干さなければ・・・と、焦っている)
ひとことで言えば、それを「雑念」という。

生活をしていると、雑念と共に暮らすことになる。

(が、雑念がない状態も、結果を追い求められたりして、けっこう苦しいものである)


あれこれ考えると、なにも書けない。
抽象的なことばかり書いても、ちっとも自分は面白くない。
かといって、超まじめな、誰が見ても、なんの落ち度もないことを書いても、自分もつまらないし、
それよりも、第一、読んでいる人は、そんなのが面白いのか?

仕事として、お金をいただいて、あちこち取材して客観的物証や確証を取り揃えて、記事を書いているわけでもない。
しょせん、無料のブログ。お遊びだ。
目くじらを立てるのも、どうかと。

いちいち、人のこころの声を詮索、気にしていては、なにもできない。
自分は、雑菌だらけのこの世で生きている。  


Posted by oldooo at 13:07Comments(0)胎児の記憶